私記と思記

何故なら、ものを書くということは人と交わるためのひとつの方法だからである。---V. ウルフ

騙される自由は成り立ちうるか?

こんなのを見つけた。

 

 

 

        

先日ここ↓

 

thesunsetlimited.hatenablog.com

 で国家資格を有する医療従事者が提供する代替医療と、自称宇宙エネルギーの使者が提供するそれとを分けて考えるべき旨書いたけれども、いずれは両者とも何らかの法規制のようなものが必要になってくるのかもしれないね。ただ、まさか瀉血的な何かをやっているのでもないでしょうし(まさかな?)、「効果のあるやなしや」は、非常に曖昧になってくると思うんですね。当人が「効いた」と思い込んでいる以上は、数値がどうであれ、それはプラセボでも妄想でも思い込みでも洗脳の結果でも同じことだからです。「実感」はそれだけ強いものなんです。究極的にはその人の信条体系に関わる話になってくる。だから私は行政や権力の安易拙速な介入には否定的な立場だ。偽物をニコニコ売りつける守銭奴は滅びればいいと思うし、喜んで大枚はたく連中を救いがたいアホだと思うし、さっさと法規制するなりガイドラインなり作ればいいじゃないかと気持ちは逸るが、それは、我々の期待したり信じたりする対象が法によって限定されるという事態でもある。騙される自由とは言わないけれども、何を信じるかをチョイスする自由を失うことになるのは頂けない。たとえそれが「まがい」のインチキであっても。似非だまがいだというのは「主流」側からの価値判断の結果であって、明らかに有害であることが立証されていたり、著しく悪辣な手法で金を巻き上げるとかでもない限りは、まがい物の跋扈も致し方ないとさえ思う。

 問題が発生してくるのは、その人が極めて重大な疾病を抱えている場合だろう。世界的に客観的に「効果」を認められている主流医療を受ける機会を損なう可能性が出てくる。下手したら、そのことで死ぬかもしれない。「ほんとうは効果なんてなかった」瀉血のせいで死んだジョージ・ワシントンのようにね。ただこの辺も立証が難しい。

 投資詐欺にせよ牧場詐欺にせよスピリチュアル詐欺にせよ、広告塔になる人は自らアホだと自白しているようなものなので、ネットで心置きなく叩いて差し上げ、お前はアホだとフィードバックして差し上げる程度でいいでしょう。ただ高橋さんという方は「知識がないこと」じたいは免責という前提に立って話しておられるようだけれども、私はそれは全然違う次元の話だと思う。むしろ知識のないことは、道義的には人類最悪の罪と言っていい。騙された人はその無知蒙昧を世人からあげつらわれ、痛みを覚えたほうがいい。しかも信頼を裏切る行為だ。簡単に「バカだから」という理由で許してはいけない。そんなことをしていたら、早晩地上は白痴の楽園になってしまう。 ここはそういう究極的なお話の場ではなく、Asamarikoさんの言うように、あたかも科学的根拠のある、主流医療の皮を被っていることが由々しき問題なのだ。医師免許状の掲げられた待合にいる人は、「心の安寧そのもの」ではなく、科学的裏付けのある、数値に反映する効果を求めてて来ているからだ。何らの科学的根拠もない代替品である、ということをきっちりと示さずに、それを医師が提供するのはあまりにも不実だ。ヨガ教室だというので何度か参加したら、麻原彰晃のビデオが出てきた、くらいの悪辣さである。数回関係したことで「断れない」雰囲気になっており、そのまま・・・という話も枚挙に暇がない。それは詐欺師の常套手段なんだけれども、不幸はいつだって、こうして始まる。騙されて不幸になるお話がいつまでたってもなくならないのは、この詐欺的構造に、人を惹きつける魅力があるからに他ならない。ここまで考えてみたときに、これは信条体系のお話でもある、というところに辿り着く。