私記と思記

何故なら、ものを書くということは人と交わるためのひとつの方法だからである。---V. ウルフ

「この世の終わり」的疼痛とモルモン教徒

 

        

    

    真夜中、鋭い腹痛で目を覚ます。
    一向に収まらない激しい下痢に続いて、とうとう下血を見る。痛みは激しくなるばかりだ。「この世の終わり」かと思うほどの痛さだが、そこには我ながら意図的な誇張が含まれていることを知っている。「このくらい言っても許されるだろうよ」。要するにそのくらい痛かった。あるいは特段痛みに弱いゆえ、せめて頭の中で軽口を叩きでもしないとやっていられなかったのかもしれない。
    脂汗にまみれてベッドの中で休んでいるとやがて収まってくるが、このままケロリと回復するような気はまったくしない。素人ながらにこれは尋常ではないと直感している。手洗いとベッドを頻繁に往復しながら断続的にやってくる痛みの波に翻弄されているうちに夜が明ける。ピーク時の痛みが再度襲ってこないとも限らないことを懸念し、生まれて初めて救急車を真剣に考えるが、痛みは減衰傾向にあるようだったので結局タクシーを呼んでかかりつけ医のもとへ駆け込んだ。

 簡単な問診と触診の結果「虚血性大腸炎」と仮診断された。確定診断のために数日後に大腸内視鏡検査の予約を入れてもらった。「非常に稀だが悪化することもあり、それは極めて危険である」旨説明を受け「今日は暴飲暴食はしないでね」とだけしつこく念を押され、痛み止めと整腸剤を処方された。暴飲暴食?そんなものはつわものどもの夢の跡だ。「もうダメかってくらい痛かったんですけど」恐る恐る訴えると、医師はパソコンの画面を見たまま平坦に言った。「そりゃ痛いですよ。腸が出血してるんだから」。「雨が降れば濡れる」みたいな物言いだった。不思議としかし安心する。礼を言って腰を上げた時「だけど」医師は思い出したように顔を上げた。「もし」

 「もし堪え難いほど痛くなったら、迷わず救急車ね。すぐに。必ずね」

 「ええ」

 「救急車を呼ぶ」

 「救急車を呼ぶ」

 それは経験を積んだ、地方都市のいち消化器内科専門医による、先人が築いた膨大な知恵や知識の上に成り立った「決してゼロではない極めて危険な可能性」へ向けたごくごく現実的で極めて良心的な注意であり警告だった。


    会計のために待合室に戻ると、隅っこの方に金髪の少年がふたり、仲良くぴたりと肩を寄せあっているのが目に飛び込んできた。一冊の、クリニックの備品のコミック本の表紙と裏表紙を大切そうに分担して持って広げている。笑みを浮かべなにやら囁き声で語り合いながら、恐ろしく物静かに、しかしとても楽しげに読んでいた。

     モルモンだ。


     自身の直感を検討したく、彼らに正対する位置に勤めてさりげなく腰掛ける。ふたりはコミックに夢中だ。わりかし遠慮なく二人を観察し始めるが、彼らがこちらに気づく気配はまったくない。彼らは無防備だった。一年中見物客の絶えない一流美術館の常設展示の静物画のようだった。
     この夏の盛りに糊のぱりっと効いた長袖の白いカッターシャツ。やはりセンタープレスのしっかり入ったサージの黒いスラックス。入念に整えられた美しい金髪で型どられた白い肌はみずみずしい。青年になりかけの少年。19か20歳か。狭い待合で最大限気遣った結果として腰掛の下に収めたのであろうヘルメットが二つ、よく手入れされた黒い革靴の奥から覗いていた。ここから歩いて数分のところに彼らの教会はある。ユタからの指示で派遣されたモルモンの若き宣教師に違いなかった。将来を嘱望されているのだろう。しかしそれにしても、これほど楽しげに仲良く打ち込めるコミックって何だろう? どうにかして盗み見ようとしているところで名前を呼ばれ、検査食を受け取り(なかなか美味そうなパッケージ)、会計を済ました。それから同じビル内の調剤薬局で薬を受け取り、ついでに経口補水液を大量に買い込み、ようやっと表に出る。夏の比較的新しい日差しが眩しい。つい数時間前の漆黒の「この世の終わり」的な痛みの記憶と、「いまここ」に広がる天高く抜けるようなあまりにも明媚な真夏の青空がうまくかみ合わないまま、私はこの馴染み深い、誰でもない私の二本の足で、当然重力に逆らおうなどと意図することもなく、ただ歩き出す。私はとぼとぼ帰宅した。
    早速痛み止めの抗痙攣剤と整腸剤を白湯で飲みくだす。モルモン教徒は決まった日に決まった期間だけ刺激性の飲料を避ける教義に従うことをふと思い出す。「虚血性なんたら」についてネットで調べてみると、暴飲暴食どころか入院のうえ絶食絶水で1週間ほど加療している「同志」がほとんどだ。数十年来世話になっているベテラン医への疑念が微かで色のない薄い煙のように立ち上る。瞬間それは「死に至る病」への底知れぬ真っ黒い不安に直結する。ロクなことにならなそうだ。私はパソコンの電源を落とした。それから経口補水液を枕もとに並べ、読みかけの文庫本を片手にベッドに潜り込む。本には集中できず、夢とうつつを往復し始める。痛みは脳を疲労させるのかもしれない。まだまだ眠れそうだ。いつのまにか下血はおさまり、夕刻には下痢(というか水そのもの)も収まったようだった。いまや痛みも遥か遠くに、時々感じる程度だ。検査をしなければわからないが、ともかくは医師の判断は適切だったのだ。問題が起きたら救急車を呼べないい。私は医師に感謝し、信頼できる医師がいてくれることを嬉しく思った。世界はこんなに簡単に終わったりしないのだろうし、そうに違いないし、どちらかというと無意識にそれを信じているのだろうし、兎に角そうあって欲しいのだ。その延長線上で私も簡単には終わったりしないはずだ。そうあるべきだ。そうあって欲しい。

 とっぷり日の暮れた薄暗い部屋でぱっちり目覚めたとき、「MANGA」にあまりにも上品に打ち興じるふたりのモルモンの少年宣教師の静謐で美しい風景がぼんやりと脳の奥の方で浮かび上がった。付随するものは皆無だった。これといった考えも感情も浮かんでこなかった。ふたりは、少なくとも私にとっての現実からはぱっつりと切り離されていた。私は空腹を感じた。

 次に私がThe  Church of Jesus Christ of Latter-day Saints末日聖徒教会)--平たく言えば「この世の終わりの日の聖徒たち」--通称モルモン教(教徒)について考えるのは、しばらく先のことになる。