私記と思記

何故なら、ものを書くということは人と交わるためのひとつの方法だからである。---V. ウルフ

彼が泣き叫んでいたのは胸膜炎のせいではなく、孤独のせいだったのである---A.コクラン

 
代替医療解剖 (新潮文庫)

代替医療解剖 (新潮文庫)

 

 

 本書は代替医療を擁護するものでもなければ、攻撃するものでもない。「科学的根拠」が人類にとって福利であり、一定の妥当性を得ているとの立場から逐一検討を加えているだけだ。結果、日本語で言うところの「批判」に近い仕上がりになっている。

 私個人は、ほぼ100%著者寄りの世界観を持っており、彼らが導く見立てに、矢張りほぼ全面的に同意する。代替医療は総じて、現在妥当性があるとみなされているところの「確実性」からはあまりにもかけ離れていると考えるものだ。ありていに言えば、代替医療の多くがインチキだ。

   著者らの目的と立場からすれば、代替医療は「科学的根拠を重視する主流医学ではないものの、医療として事実上認知されているもの」として十把一絡げで括って差し支えなかろう。前述のとおり、著者らの目標は、地上にはびこる数多の代替医療への科学的・系統的レヴューの提供であるからだ。(はっきり言って ”被害に遭わないために” の体である。)したがって、その人文学的・社会学的・政治的特徴や価値、成り立ちについては何らの解釈も施されていない。しかしそここそが、私の唯一にしてほんの少しだけ得意な分野なのだ。せっかくなので、その視座からいくつか付け足したい。

 代替医療と一口で纏めるのは困難だ。ちょっとネットで検索するだけでも、医師免許を持った施術者による(一見主流派に見える)本格的なものから、「霊界」やら「宇宙」やら、いかにも怪しげな「癒し手」によるものまで、百花繚乱の様相を呈している。ので、非常に雑ではあるが分類してみよう。ひとつは施術者やその機関が、国家資格である医師免許を有しており、「医療」として提供しているものだ。提供される商品は、一定期間の「専門家」による、専門機関での研究の上で生まれたものではあるが、現在のところ科学的根拠には乏しい状態であるものだ。例えば、NK細胞による免疫療法などだ。いまひとつは、「科学的根拠」や「科学」をのものをハナから顧みないタイプのものだ。「霊界」「宇宙」といったおよそ検証不能な概念に大きく依っていたり、独自の世界観を基幹に有していたり、施術者個人の経験のみに頼っていたり、「師」個人(あるいは民間団体・企業)から免許を得るなどの方法でその知識を「継承」されているようなタイプのものだ。かなり乱暴だが「スピリチュアリズム/オカルト寄りのなにか」と言ってしまってもいいかもしれない。ここでは後者についていくつか述べてみたい。

 この、科学的根拠を全く顧みない、スピリチュアル/オカルトグループに属すると思しきものの殆どは、その内実は宗教である。あるいはかなり強い宗教性を有している。ここでは、宗教とは「ある程度一貫した世界観を形成するに足る教義・経典を持ち、それらは現世の処世訓にとどまらない超自然的な価値や不可視の存在への志向性を有しており、なおかつその価値に根ざした実践の手続きが存在する」ものとする。新興宗教にはこれに「それら手続きを指導する強力な指導者=グルが存在する」と付け加えると良い。日本人は昔から「宗教」と聞くと非常にネガティブな反応を示すし、オウム真理教による無差別テロを経験して以降は蛇蝎のごとく嫌い抜いている。近年は米国ですらその傾向が強くなってきているが、宗教っぽさというのはどんな組織にも個人にも、いつでもどこでも発生しうる。超越的な価値への憧憬や生死といった究極問題への取り組みということなら、それは人間ならではの「心性」のようなものであり、それそのものは否定すべき邪悪なものでは決してない。これも宗教性の一つだ。だれもが厨二病を患うではないか。「なぜ生きるか」「死ぬとどうなるか」考えたことのない人など、この世にいるのだろうか? 私が思うに、彼らが嫌われるのは、宗教性そのものではなく、極端な自己完結性や自閉性のせいだ。その宗教世界以外の世界に対して、閉じられている(ように感じられる)からなのだ。「あの会社はどこか宗教じみているよね」とか「あのひとはまるで何かに取り憑かれてでもいるようだね」というとき、それは「非常に独特で取りつく島がない」と言っているのだ。

 こうした外からの批判や検討を絶対に許さない、あるいは耳を塞ぐ、あるいは単に無関心な自閉的態度は、多くの宗教が「魂」や「永遠の幸福」といった極めて抽象的なテーマを追求する運動であるがゆえに致し方がないものでもある。だが宗教団体による暴力事件や反社会的行為の直接的な原因でもあるのも紛れも無い事実だ。自身の信じるものだけが唯一絶対的に真であると無自覚的に信じ、他を見下し、気にかけず、耳を塞ぐ。心は硬直し、組織は腐敗する。これらは暴力の萌芽だ。スピリチュアル的療法における自閉性は「科学」への敵対、ないしは猜疑にもしくは無関心に顕著に現れているが、そうして提供されるもの・ことは果たして「真の癒し」なのだろうか? 独善とはどう違うのだろうか。

 ところで『代替医療解剖』では、ある軍医がモルヒネ不足から負傷兵に生理食塩水を投与し、それで乗り切ってしまったという信じられないようなエピソードが紹介されている。プラセボだ。プラセボは最近になって本格的に研究の対象として扱われるようになり、現在そこそこのエビデンスが蓄積されつつあるらしく、ポジティブな感情や医師と患者の信頼関係が治療に良い影響をもたらしうることが科学的に裏付けられつつあるとのことだ。感覚的にも経験的にも納得のできる話だ。(もちろん効果は限局的だ。プラセボでクロイツフェルトヤコブ病が完治したり、末期の悪性腫瘍が消え失せることはない。主に急性的な痛みの緩和に効果があるということだ。)

 スピリチュアル/オカルト系代替医療に可能性があるとすれば、このプラセボだろう。上掲書でも言及されるように鍼治療の9割はプラセボだという。大病院の、学業成績が良かっただけの人格に欠陥のありそうなサラリーマン医に「見放された」と感じ、絶望した患者が代替医療に嵌まり込み、結果不幸になる事例は枚挙に暇がない。先日も有名人が亡くなったと聞く。だが偽医療で余命と財産を削っても「優しく親身に接してくれたことだけは支えになった」と言う人もいる。こういう場面では、「魂」や「霊」「聖なる力」といった実体の曖昧なものを想定するスピ/オカ代替医療は残されてもいいと私は思う。

 本記事のタイトルは上掲書からの引用だ。捕虜となり、収容所で軍医として捕虜の治療に携わったアーチボルト・コクランというスコットランド人医師の言葉だ。

このとき彼は、「瀕死の状態で泣き叫んでいた」ひとりのソヴィエト兵を治療するという絶望的な立場に立たされた。コクランにできたのは、アスピリンを与えることぐらいだった。のちに彼はこの時を振り返って、次のように書いた。

とうとう私はたまらなくなってベッドに腰を下ろすと、両腕でその男を抱きしめた。そのとたん、叫び声がぴたりと止んだ。それから数時間ほどして、彼は私の腕の中で静かに息を引き取った。彼が泣き叫んでいたのは胸膜炎のせいではなく、孤独のせいだったのである。私はこのとき、死にゆく人の看護について、かけがえのない勉強をさせてもらった。』(p.133)

   かれはのち、「コクラン共同計画」の中心人物になる。科学的根拠に基づく医療の大切さを訴え、世界中から研究論文やケーススタディを集め、系統的にその情報を提供するプロジェクトだ。

 科学に敵対的なスピ/オカ系代替医療の施術者や擁護者は、しばしば「冷たい」「画一的」「部分的」として科学を退け、「温かく心の通った」「オーダメイドの」「ホリスティックな」なにがしを訴えるが、患者に寄り添う全人的な態度と科学的根拠に基づく医療は両立可能なのだ。ということは、スピ/オカ系施術者が、扱う領域についての科学的知識を深め科学的根拠の重要性を理解し、且つ自身の信条体系や希望がどうであれ、その時点での客観的な立ち位置を自覚することは可能なはずだ。そういう「代替医療」なら治療はできなくとも人々の「痛み」を癒せるかもしれない。そうして初めて、スピ/オカ系医療は、金目当ての詐欺行為でも、自閉的な信念の押し売りでも、自己満足でもカルト宗教でも独善でもなく、alternative...もうひとつの可能性として世の中に寄与できる何かになりうるかもしれない・・・いや、ことによっては。だといいんだけど。

 

...現実的には難しいよね。スピリチュアリティはいまや商材だし。自分の疑ってる仕組みや説明方法でもって、自身を客観化するとか無理ゲー。科学的世界観と宗教的世界観て、やっぱし馴染まない気がする。1970-80年代、ニューエイジブームの末期に「科学的な実践」を売りにする新興宗教がにわかに流行ったが、あれを胡散臭く感じるは当然だったのかも。むしろ「科学」でなんでも解明できる的な傲慢さが漂っているし、「そういう態度こそ宗教じゃねえかよp」的な循環を起こすわけですよ(笑)オウム真理教、てめえだよ。

 

追記

「宗教性」というとき、私たちは何を示そうとしているのだろう。

1、教団構造や信者の心性の閉鎖性:「腐って悪いことが横行している組織」「カルト野郎」的なニュアンス。=ほぼネガティブ

2、実存的問題への指指向性:実存的難問の。曖昧模糊たる。捉えどころがない。=概ねニュートラル。

3、崇高ななにがし:まあポジティブ。(だけどあんまり見かけない気も。)