私記と思記

何故なら、ものを書くということは人と交わるためのひとつの方法だからである。---V. ウルフ

私の心に残るこの汚点は、悲しみに暮れ自責にさいなまれる数ヶ月を過ぎても、洗い流されるというようなものではない---J.クラカワー

 

空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)

空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)

 
             

...作者がカタルシスとして書いた場合、しばしば読者がしらけるということもわたしは承知している。しかしわたしは望んでいるのだ---あの惨劇の直後、錯乱と苦悩の只中に、あえて自分の気持ちをさらけ出すことによってえるものあるだろう、と。時が経過し苦悩が消散したあとではもう出てこないかもしれない、生(き)のままの厳しい誠実が、わたしの記述にあれば、と思っている。

  1996年のエベレスト大量遭難の生還者本人による山岳ドキュメント。著者のクラカワーが難波さんと同じパーティーにいたことを初めて知った。

 クラカワーは米国有数のアウトドア雑誌の記者として、商業登山の実態をレポートするべく、実際に商業登山パーティーでエベレスト登攀を試みる。そこで史上最悪レベルの大量遭難事故の当事者となる。事件当時アタックを試みていた4パーティーすべてが巻き込まれ、総勢12名が亡くなっている。クラカワーの所属隊では、ガイド及びシェルパを含めアタックを試みた8名のうち実に4名が死亡している。クラカワーはそこから辛くも生還した一人だ。その一部始終を、生還後に行った取材を加えてまとめたものである。本人も言っているように、書かずにおられなかったのだろう。

 クラカワーは『荒野へ』で初めて知った作家で、わざわざ独りぽっちになり引っ込んだところから淡々と描写した巨大で手に負えない世界に、ほとんど気違いじみた執念深い取材で得た無数の断片をひと針ひと針縫いこんでゆくことで生々しい構成体を創り上げるような独特のスタンスと、ひとえに暗く冷淡な文体が好みなのだが、これらは文学的な効果を狙って練り上げたものではなく、彼の経験や思いのそのものなのかもしれない。

 彼が取り上げる個別のエピソードや人間模様と、それらに対する彼の解釈はともかくとして、彼の希望通り彼の叙述には「生の厳しい誠実さ」が滲んでいると、私は思う。彼が取材名目で参加することになるガイド付き登山を提供する会社をめぐって行われていた駆け引きへの悪びれない態度や、同日アタックしたお隣の隊(スコット隊)のロシア人ガイドであるアナトリ・ブクレーエフへのまことに不合理かつアンフェアな子供じみた糾弾も含めて。

 本書以外でこの事件のあらましを調べる限りにおいても、あの現場で彼ができることなどなかったと思う。実際「どうしようもなかった。あの中で私は最善を尽くした」と話す、深刻な後遺症を負った生還者もいる。私もどうしようもなかったし、クラカワーは生還できただけで幸運だったと思う。生存者罪悪感の激烈なことは容易に想像出来るのだが、彼の報告を読んでもやはり、彼に出来たことなどなかったし、他の誰かがどこかの時点で何かを「点」的に行った/行わなかったとして、避けようがなかった気がする。数々の出来事があまりにも複雑に絡み過ぎている。登山会社間の商業上の競争。登頂を商品として提供する側の沽券。それぞれの顧客の思惑、そして貧弱な登山技術。取り決めた約束を守らないパーティー。不可解に激情的で問題の多そうな、と或る隊の隊長。とかくお騒がせで有名なセレブリティの顧客。それらがもたらしたかもしれない個人間の悪感情。当然のこと形成されない結束感や信頼。山を神と畏怖するシェルパと「西欧社会」の金持ちたち。山頂への最後の難所での大渋滞。そして天候の急変。これら全ての出来事の総体として結果的に遭難があったとしか、言いようがない。上に挙げたような個別の出来事でさえも、それらが必然的な結果なのか或いは偶然の産物なのか、そんなことは誰にもわからないのだ。個別の出来事から因果関係を求めるのは不可能だ。しかしジョン・クラカワーはアナトリ・ブクレーエフをけしからんガイドだと徹底的にこき下ろす。本書の中でこれほど非難された人はいない。その叙述はあたかも言外に大量遭難の責を彼一人に帰すかのようだ。

 だが私は思わずにおられない…クラカワーが受け容れたくないのは、不愉快な諸事実や、或いは凄惨な経験そのものではなく、彼が「無力であることその事自体」なのではないか?と。責められる点もあったかもしれないが、英雄的と言って過言ではない危険な救助活動に挑み、自身の所属隊の顧客2人を救ったスコット隊のブクレーエフへの奇妙な或いは醜い糾弾は、実はクラカワー自身に向けられているのではないだろうか。隊の同胞である難波を救えなかった彼自身に。唯一心を開きあった友人を「見殺し」にせざるをえなかった彼自身に。そして生き残ってしまった彼自身に。

  クラカワーは深刻な高度障害に見舞われながらも登頂を遂げた。命からがら下山する最中、仲良くなった唯一の仲間の奇妙な行動を横目に1人ベースキャンプに戻ってきている。ブクレーエフが救助活動の協力を求めたその時、難波からたった200mと離れていないテント内で人事不省にも等しかった。のちブクレーエフは難波について救助に向かった時点でまだ辛うじて生きていたと報告している。体感温度マイナス70度の大型トラックがひっくり返るくらいの視界ゼロの猛吹雪の中でたった1人で救助するには3人は多過ぎた。ブクレーエフ自身は極限状態の中で難波を置き去りにしたことを激しく悔い、のち難波の遺品を回収しに遭難地点を再訪している。

 この状況下で「生き残った絶望」は慮るに有り余る。ブクレーエフへの激しい非難は、彼のみならず、極限の地での容赦ない自然の前にあっては「葦」でしかない人類に向けられているようにさえ思われてならない。どうしても、私はそんな気がする。

 

 

 

 

荒野へ (集英社文庫)

荒野へ (集英社文庫)

 

 

 

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

 

 

thesunsetlimited.hatenablog.com

 

人間は極めて限定された環境のみならず様々な環境に適応していける。限定された環境に適応していく為に必要な適応力を前もって僅かしか備えていなくても、新しい経験を学んだり見つけ出したりして、身につけていくことが可能なのだ。---A.ストー

 

             

 

 

 

自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか

自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか

 

 

2人のフランス人臨床家の手によるものということで、多様な症例から導いた複眼的な考察を期待していたのだが肩透かしを食らった。症例はエピソード的に(面白おかしく)挿入されるだけで、それについての考察や展開は皆無だった。症例を挙げる筆致にも真摯さや、クライエントへの敬意を感じない。というか、人間に対する敬意が感じられない。
 前半は子供とどうむきあうか、ということに割かれている。子供にこう言われたらこう反応せよ的なマニュアルめいた分類表も多数だ。中盤では自己評価の高い傲慢な人物を例に挙げ高いから良いわけではない、として高低という指標の相対性について述べられるものの、さんざん「高低」をスキームとして用いて、それを元に発症する症状や日常の反応の仕方まで分類したあとなので鼻白む。事あるごとに根拠薄弱な分類を行い、低い人はこう、高い人はこう、とやる。そして「低い」方はなんとも惨めな文言で埋め尽くされている。さらに「自己評価が低い」と「人種差別主義者」になりうる、とまで言い切る。後半、自己評価は可変的なものであるという極めて脆弱な前提を受けて具体的にどう変えるか、ということが述べられているが、巷に溢れる自己啓発的なありきたりなもので目新しさはない。自己評価の低かった人が、何々をして「成功」した、「勝利」した、そして自己評価を上げた、といった小咄で埋め尽くされてている。私は人間への敬意の薄さを、この辺から感じ取ったのだと思う。吐き気を催す人間描写だ。
 3分の1時点あたりで嫌な予感がしたのだが、案の定、現代の悲観的運命論のパワーワード中の パワーワード毒親が参上する。毒親とかいうのは(たぶん)アル中親の子供→アダルトチルドレン あたりの文脈から出てきた言葉だとは思うんだけども ※詳しく知りません。適当です *1。ただ原型がフロイトの愛着理論にあるのは間違いないだろう。幼少時に適切な扱いを受けないと後年神経症を患うというアレだ 。たしかに幼年期の経験というのは人間にとってとても大切なのだ。乳児期に母親から分離された子供は一様に不安に陥り、情緒不安定になるという。だが自分の遺伝子を多分に共有している親を「毒」=絶対悪と断定してしまったとして、その人はそれで幸せになれるのだろうか。「私は悪を孕んでいる存在だ」となるのは自明の理ではないか。しかも引き継いだ遺伝子は変えられない。これでは絶望だ。生まれる場所や時を人間は選べない。幼少時は育つ環境を自らの意思で選ぶことができない。つまり幼年期の家族のありようによって、すべてが予め決定しているということになる。しかも得られるべきだったものを獲得しなければ、人格は永遠に未熟なままで破綻するというのだ。おぞましい決定論だ。フロイトの愛着理論を突き詰めていくと、人生の全ては他者との「健全な」関係にあるのであり、それは家族によってもたらされるべきものであった、という家族原理主義にたどり着く。そして不幸にも手に入れることができなかったものは、「健全さ」を永久に失われたままなのだ。
 嗚呼私は子供にろくでもない環境しか提供できない毒のような悪い親に育てられた。ああ!なんて惨めで可哀想な私!(私は悪い遺伝子を持っているのか?)(まさか!だって私は選べなかったんだ!悪い遺伝子を持っているとして、それは悪い親のせいだ!私は悪くない、私は被害者だ!)ああ!私はされるがままにこんなにされてしまった! 
 まったき絶望だ。なぜかくも絶望的で極端な発想が、巷でもてはやされているのだろう。なぜ人格の成熟を語りながら、「毒親」なるものの人格について思いを至らせることができないのだろう。こんなものに共鳴したとして、自己憐憫に浸るか無力を呪うのがせいぜいではないか。下手したら憎悪に発展しそうで恐ろしい。なんて胸の悪くなる話なのだろう。
 話を本書に戻す。要するに著者らは、20世紀初頭アメリカはW.ジェイムズによる、他との比較によって自身を客観視する「自己を検討する能力としての自己評価」という枠組みの中に、19世紀末ウィーンはフロイトの古色蒼然たる愛着理論を詰め込んだだけで、先人たちの思考の痕跡から1歩も1ミリも発展なり展開出来ていないのだ。著者らは悪い意味で極めて保守的なのだろう。ところで著者らは「自己評価の低い人は頑迷で保守的」と分類している。一方「自己評価の高い人は柔軟で革新的」とかなりポジティブな語で括っている。つまり基本的には彼らは「自己評価の高い」ことを良き価値として捉えているのだ。すると残念なことになる。彼らが提唱する方法では、彼らが良き価値と見做すところの「高い自己評価」に至ることが出来なかったのだから。だって彼らは頑迷な保守主義者だなのだから! いや、まだこう言う余地もある。「捨て身の人体実験を無意識裡に行い、自説への反駁を成し遂げるとは、なんと革新的なのか!エスプリ効いてる!ビバ!高自己評価 」と。(ちなみにジェイムズはあくまでも自分を客観的に眺める「能力」として「自己評価」と言っています。高低をどうこうするものでも、価値を付与できるような静的な概念ではないのです。近年言われている「自己評価」はすべてインチキです。すくなくともジェイムズという「権威」とは一切関係がありません。)
   最近こうした「心理学的知見」をよく目にするが、こうした知見は人をどれだけ豊かに満ち足りた思いにさせただろう?「科学的」を標榜している分占いよりずっと悪質だとさえ思う。著者らは「自己評価の低い人は非科学的な占いが大好き!🤣」と馬鹿にしているが。私の目に映る彼らの物言いは、「愛着理論に基づく家族第一原理主義」教の狂信者による同族嫌悪そのものだ。

   嫌な予感がしたのに引き返せなかったのは、私の「自己評価が低い」からだろうか?彼らのお粗末なスキームに当てはめるとそういうことになるらしい(「自己評価の低い人は嫌と言えない」)が、これまで一度読み始めた著作は99%読了している。論説系は最後まで読まねば判断できないので余程でない限り我慢して読むことにしているのだ。習慣だ。ともあれ、愛着理論に基づく家族原理主義者はこう言うだろう。「あなたは途中で諦めることを"無意識"で恐れているのです。投げ出せば"見捨てられる"ように感じるからです。その思いは"支配的な両親"(養育者)によってもたらされたものです。"抑圧"された"心的外傷"の"補償"行為です!それを解放しない限りあなたの苦しみは続くのです!セラピーが必要です!薬が必要です!」。これでは手に負えない。出口なしだ。
   出口がない体系を理論とは言わない。それは絶対善を置いてそれに帰依し続けることで救いを見出す宗教だ。幸不幸の実現なり獲得に条件を付与して支持者を獲得する手法は広義の洗脳であり、それを「善」として実践するのはカルト宗教か共産主義だ。
   久しぶりにひどい読書だった。老眼が進行したらどうしてくれるんだよ。眼筋の柔軟性返せ。

 

*1:気になってウィキペディアを調べると、だいたいこんな見立てで良さそうです。斉藤学という精神科医が似たような指摘をしていることに親近感を抱いた。191105追記

騙される自由は成り立ちうるか?

こんなのを見つけた。

 

 

 

        

先日ここ↓

 

thesunsetlimited.hatenablog.com

 で国家資格を有する医療従事者が提供する代替医療と、自称宇宙エネルギーの使者が提供するそれとを分けて考えるべき旨書いたけれども、いずれは両者とも何らかの法規制のようなものが必要になってくるのかもしれないね。ただ、まさか瀉血的な何かをやっているのでもないでしょうし(まさかな?)、「効果のあるやなしや」は、非常に曖昧になってくると思うんですね。当人が「効いた」と思い込んでいる以上は、数値がどうであれ、それはプラセボでも妄想でも思い込みでも洗脳の結果でも同じことだからです。「実感」はそれだけ強いものなんです。究極的にはその人の信条体系に関わる話になってくる。だから私は行政や権力の安易拙速な介入には否定的な立場だ。偽物をニコニコ売りつける守銭奴は滅びればいいと思うし、喜んで大枚はたく連中を救いがたいアホだと思うし、さっさと法規制するなりガイドラインなり作ればいいじゃないかと気持ちは逸るが、それは、我々の期待したり信じたりする対象が法によって限定されるという事態でもある。騙される自由とは言わないけれども、何を信じるかをチョイスする自由を失うことになるのは頂けない。たとえそれが「まがい」のインチキであっても。似非だまがいだというのは「主流」側からの価値判断の結果であって、明らかに有害であることが立証されていたり、著しく悪辣な手法で金を巻き上げるとかでもない限りは、まがい物の跋扈も致し方ないとさえ思う。

 問題が発生してくるのは、その人が極めて重大な疾病を抱えている場合だろう。世界的に客観的に「効果」を認められている主流医療を受ける機会を損なう可能性が出てくる。下手したら、そのことで死ぬかもしれない。「ほんとうは効果なんてなかった」瀉血のせいで死んだジョージ・ワシントンのようにね。ただこの辺も立証が難しい。

 投資詐欺にせよ牧場詐欺にせよスピリチュアル詐欺にせよ、広告塔になる人は自らアホだと自白しているようなものなので、ネットで心置きなく叩いて差し上げ、お前はアホだとフィードバックして差し上げる程度でいいでしょう。ただ高橋さんという方は「知識がないこと」じたいは免責という前提に立って話しておられるようだけれども、私はそれは全然違う次元の話だと思う。むしろ知識のないことは、道義的には人類最悪の罪と言っていい。騙された人はその無知蒙昧を世人からあげつらわれ、痛みを覚えたほうがいい。しかも信頼を裏切る行為だ。簡単に「バカだから」という理由で許してはいけない。そんなことをしていたら、早晩地上は白痴の楽園になってしまう。 ここはそういう究極的なお話の場ではなく、Asamarikoさんの言うように、あたかも科学的根拠のある、主流医療の皮を被っていることが由々しき問題なのだ。医師免許状の掲げられた待合にいる人は、「心の安寧そのもの」ではなく、科学的裏付けのある、数値に反映する効果を求めてて来ているからだ。何らの科学的根拠もない代替品である、ということをきっちりと示さずに、それを医師が提供するのはあまりにも不実だ。ヨガ教室だというので何度か参加したら、麻原彰晃のビデオが出てきた、くらいの悪辣さである。数回関係したことで「断れない」雰囲気になっており、そのまま・・・という話も枚挙に暇がない。それは詐欺師の常套手段なんだけれども、不幸はいつだって、こうして始まる。騙されて不幸になるお話がいつまでたってもなくならないのは、この詐欺的構造に、人を惹きつける魅力があるからに他ならない。ここまで考えてみたときに、これは信条体系のお話でもある、というところに辿り着く。

彼が泣き叫んでいたのは胸膜炎のせいではなく、孤独のせいだったのである---A.コクラン

 
代替医療解剖 (新潮文庫)

代替医療解剖 (新潮文庫)

 

 

 本書は代替医療を擁護するものでもなければ、攻撃するものでもない。「科学的根拠」が人類にとって福利であり、一定の妥当性を得ているとの立場から逐一検討を加えているだけだ。結果、日本語で言うところの「批判」に近い仕上がりになっている。

 私個人は、ほぼ100%著者寄りの世界観を持っており、彼らが導く見立てに、矢張りほぼ全面的に同意する。代替医療は総じて、現在妥当性があるとみなされているところの「確実性」からはあまりにもかけ離れていると考えるものだ。ありていに言えば、代替医療の多くがインチキだ。

   著者らの目的と立場からすれば、代替医療は「科学的根拠を重視する主流医学ではないものの、医療として事実上認知されているもの」として十把一絡げで括って差し支えなかろう。前述のとおり、著者らの目標は、地上にはびこる数多の代替医療への科学的・系統的レヴューの提供であるからだ。(はっきり言って ”被害に遭わないために” の体である。)したがって、その人文学的・社会学的・政治的特徴や価値、成り立ちについては何らの解釈も施されていない。しかしそここそが、私の唯一にしてほんの少しだけ得意な分野なのだ。せっかくなので、その視座からいくつか付け足したい。

 代替医療と一口で纏めるのは困難だ。ちょっとネットで検索するだけでも、医師免許を持った施術者による(一見主流派に見える)本格的なものから、「霊界」やら「宇宙」やら、いかにも怪しげな「癒し手」によるものまで、百花繚乱の様相を呈している。ので、非常に雑ではあるが分類してみよう。ひとつは施術者やその機関が、国家資格である医師免許を有しており、「医療」として提供しているものだ。提供される商品は、一定期間の「専門家」による、専門機関での研究の上で生まれたものではあるが、現在のところ科学的根拠には乏しい状態であるものだ。例えば、NK細胞による免疫療法などだ。いまひとつは、「科学的根拠」や「科学」をのものをハナから顧みないタイプのものだ。「霊界」「宇宙」といったおよそ検証不能な概念に大きく依っていたり、独自の世界観を基幹に有していたり、施術者個人の経験のみに頼っていたり、「師」個人(あるいは民間団体・企業)から免許を得るなどの方法でその知識を「継承」されているようなタイプのものだ。かなり乱暴だが「スピリチュアリズム/オカルト寄りのなにか」と言ってしまってもいいかもしれない。ここでは後者についていくつか述べてみたい。

 この、科学的根拠を全く顧みない、スピリチュアル/オカルトグループに属すると思しきものの殆どは、その内実は宗教である。あるいはかなり強い宗教性を有している。ここでは、宗教とは「ある程度一貫した世界観を形成するに足る教義・経典を持ち、それらは現世の処世訓にとどまらない超自然的な価値や不可視の存在への志向性を有しており、なおかつその価値に根ざした実践の手続きが存在する」ものとする。新興宗教にはこれに「それら手続きを指導する強力な指導者=グルが存在する」と付け加えると良い。日本人は昔から「宗教」と聞くと非常にネガティブな反応を示すし、オウム真理教による無差別テロを経験して以降は蛇蝎のごとく嫌い抜いている。近年は米国ですらその傾向が強くなってきているが、宗教っぽさというのはどんな組織にも個人にも、いつでもどこでも発生しうる。超越的な価値への憧憬や生死といった究極問題への取り組みということなら、それは人間ならではの「心性」のようなものであり、それそのものは否定すべき邪悪なものでは決してない。これも宗教性の一つだ。だれもが厨二病を患うではないか。「なぜ生きるか」「死ぬとどうなるか」考えたことのない人など、この世にいるのだろうか? 私が思うに、彼らが嫌われるのは、宗教性そのものではなく、極端な自己完結性や自閉性のせいだ。その宗教世界以外の世界に対して、閉じられている(ように感じられる)からなのだ。「あの会社はどこか宗教じみているよね」とか「あのひとはまるで何かに取り憑かれてでもいるようだね」というとき、それは「非常に独特で取りつく島がない」と言っているのだ。

 こうした外からの批判や検討を絶対に許さない、あるいは耳を塞ぐ、あるいは単に無関心な自閉的態度は、多くの宗教が「魂」や「永遠の幸福」といった極めて抽象的なテーマを追求する運動であるがゆえに致し方がないものでもある。だが宗教団体による暴力事件や反社会的行為の直接的な原因でもあるのも紛れも無い事実だ。自身の信じるものだけが唯一絶対的に真であると無自覚的に信じ、他を見下し、気にかけず、耳を塞ぐ。心は硬直し、組織は腐敗する。これらは暴力の萌芽だ。スピリチュアル的療法における自閉性は「科学」への敵対、ないしは猜疑にもしくは無関心に顕著に現れているが、そうして提供されるもの・ことは果たして「真の癒し」なのだろうか? 独善とはどう違うのだろうか。

 ところで『代替医療解剖』では、ある軍医がモルヒネ不足から負傷兵に生理食塩水を投与し、それで乗り切ってしまったという信じられないようなエピソードが紹介されている。プラセボだ。プラセボは最近になって本格的に研究の対象として扱われるようになり、現在そこそこのエビデンスが蓄積されつつあるらしく、ポジティブな感情や医師と患者の信頼関係が治療に良い影響をもたらしうることが科学的に裏付けられつつあるとのことだ。感覚的にも経験的にも納得のできる話だ。(もちろん効果は限局的だ。プラセボでクロイツフェルトヤコブ病が完治したり、末期の悪性腫瘍が消え失せることはない。主に急性的な痛みの緩和に効果があるということだ。)

 スピリチュアル/オカルト系代替医療に可能性があるとすれば、このプラセボだろう。上掲書でも言及されるように鍼治療の9割はプラセボだという。大病院の、学業成績が良かっただけの人格に欠陥のありそうなサラリーマン医に「見放された」と感じ、絶望した患者が代替医療に嵌まり込み、結果不幸になる事例は枚挙に暇がない。先日も有名人が亡くなったと聞く。だが偽医療で余命と財産を削っても「優しく親身に接してくれたことだけは支えになった」と言う人もいる。こういう場面では、「魂」や「霊」「聖なる力」といった実体の曖昧なものを想定するスピ/オカ代替医療は残されてもいいと私は思う。

 本記事のタイトルは上掲書からの引用だ。捕虜となり、収容所で軍医として捕虜の治療に携わったアーチボルト・コクランというスコットランド人医師の言葉だ。

このとき彼は、「瀕死の状態で泣き叫んでいた」ひとりのソヴィエト兵を治療するという絶望的な立場に立たされた。コクランにできたのは、アスピリンを与えることぐらいだった。のちに彼はこの時を振り返って、次のように書いた。

とうとう私はたまらなくなってベッドに腰を下ろすと、両腕でその男を抱きしめた。そのとたん、叫び声がぴたりと止んだ。それから数時間ほどして、彼は私の腕の中で静かに息を引き取った。彼が泣き叫んでいたのは胸膜炎のせいではなく、孤独のせいだったのである。私はこのとき、死にゆく人の看護について、かけがえのない勉強をさせてもらった。』(p.133)

   かれはのち、「コクラン共同計画」の中心人物になる。科学的根拠に基づく医療の大切さを訴え、世界中から研究論文やケーススタディを集め、系統的にその情報を提供するプロジェクトだ。

 科学に敵対的なスピ/オカ系代替医療の施術者や擁護者は、しばしば「冷たい」「画一的」「部分的」として科学を退け、「温かく心の通った」「オーダメイドの」「ホリスティックな」なにがしを訴えるが、患者に寄り添う全人的な態度と科学的根拠に基づく医療は両立可能なのだ。ということは、スピ/オカ系施術者が、扱う領域についての科学的知識を深め科学的根拠の重要性を理解し、且つ自身の信条体系や希望がどうであれ、その時点での客観的な立ち位置を自覚することは可能なはずだ。そういう「代替医療」なら治療はできなくとも人々の「痛み」を癒せるかもしれない。そうして初めて、スピ/オカ系医療は、金目当ての詐欺行為でも、自閉的な信念の押し売りでも、自己満足でもカルト宗教でも独善でもなく、alternative...もうひとつの可能性として世の中に寄与できる何かになりうるかもしれない・・・いや、ことによっては。だといいんだけど。

 

...現実的には難しいよね。スピリチュアリティはいまや商材だし。自分の疑ってる仕組みや説明方法でもって、自身を客観化するとか無理ゲー。科学的世界観と宗教的世界観て、やっぱし馴染まない気がする。1970-80年代、ニューエイジブームの末期に「科学的な実践」を売りにする新興宗教がにわかに流行ったが、あれを胡散臭く感じるは当然だったのかも。むしろ「科学」でなんでも解明できる的な傲慢さが漂っているし、「そういう態度こそ宗教じゃねえかよp」的な循環を起こすわけですよ(笑)オウム真理教、てめえだよ。

 

追記

「宗教性」というとき、私たちは何を示そうとしているのだろう。

1、教団構造や信者の心性の閉鎖性:「腐って悪いことが横行している組織」「カルト野郎」的なニュアンス。=ほぼネガティブ

2、実存的問題への指指向性:実存的難問の。曖昧模糊たる。捉えどころがない。=概ねニュートラル。

3、崇高ななにがし:まあポジティブ。(だけどあんまり見かけない気も。)

www.afpbb.com

 

すごくいい音が出るんだろうな。彼の骨格なら10度くらい余裕で届きそうだし。

おっさんになってから習い始めたという元巨人の桑田選手も、体の使い方が自然で、ものすごくいい音が出ていた。そして流石エース級投手、手がおそろしくデカいw

 

羨ましい!

 

交わりの欠如からは、画一性と紋切り型が生まれる---A.ストー『人格の成熟』

ぼんやりネットサーフィンをしていても、目的を持って調べ物をしていても、しばしばツイッターのログに出会う。これが見事にほぼ全て面白くない。十中八九は読むに足らない。「面白くなさ」の理由はいくつかに分類できる。

 

1,芝居ががっている

2,嘘

3,ただの引用(リツイート?)

 

3は単体でお目にかかるが、1と2は渾然一体としている。ツイッター世界における定型フォームがあって、もれなくそれに則っているからだろう。炎上案件ですら、ご丁寧にフォーム内でバトルをしている。それが「芝居がかって」「嘘くさく」感じられるのだ。フィジカルな痛みを伴わないぶん、プロレスより悪い。フィジカルな痛みは人がヒトであることを思い出させてくれる。

    フォームというのは文字制限のことではなく、ノリみたいなものだ。「2ちゃんでマジレスカッコ悪い」みたいなノリです*1  。誰もが、そこで正しいとされる振る舞い方に則って何らかの役割を演じているように見えてくる。第三者の意見なのか、それをアレンジして出てきたその人の意見なのか、その人ならではの意見なのか、もうさっぱり分からない。考えの道筋のようなものが、何1つ見えてこないのだ。その道筋にこそ、そいつらしさが出るもので、こちらはそれを期待しているのに、全部同じと来たもんだ。枠組みや使い方どころか、単語レベルで同じなのだ。例えば、判で押したように「同調圧力」って「辛いよね」などと言う。語のチョイスに、その人を連想させるようなものが何もない。感情表現さえも、みな同じなのだ。「同調圧力」を案じているらしい人がこれなのだ!

    総合すると、ツイッターのつまらなさは、そこに居ると想定していた「個」の不在にあるのかも知れない。そういう均質な世界では、個々の人柄なんて原始時代の野蛮な習慣か何かに思えてくるほどだ。

自由とか個性って何なんでしょうね。

ええ、ただの言葉です。書きつけられ、硬直した言葉。

現実で長く付き合う彼らには、きっと彼/彼女らしい厭らしさや、愛おしさや、敬意を払いたくなるようなところや、そういうのがたくさんあるはずなんだけど。あって欲しい。

*1:2chではスレッドによってテーマが極めて限定されているためか、まだ忌憚なく言いたい放題やってい気がするけどね。ツイッターはテーマで細分化されていないぶん、参加者たちは、この世に溢れるあらゆるものに同化しようとしている気がする。つまり、すべてのものに対して良い子ちゃんになろうとしてるように見える。ツイッターは「広場」として捉えるものなのかもね。

眠れない一族ー食人の痕跡と殺人タンパクの謎  ダニエル・マックス(2007紀伊国屋書店)

 

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

 

 

 

        

    

原題 The Family That Couldn’t Sleep(2006)
 
 耳目を引くタイトルだが、テーマは最近流行りの「アート」よろしく奇を衒ったわけではなく、また厨二的ホラーものでもない。邦訳版副題にあるように、いわゆる「プリオン病」を巡る歴然たる医学・科学ドキュメンタリーだ。
 プリオン病というのは、分子であるはずのタンパク質が何らかの原因によって異常を来し「感染」能力を得て、正常な遺伝子配列を変え、その結果、不治の病ー100%死に至る病ーを引き起こすものである。
 いちばん有名なのは「狂牛病」といわれるBSE;Bovine Spongiform Encephalopathy ウシ属の、スポンジ状になる脳の炎症)だろう。
 BSEのように外部からの感染によって発症するもの、遺伝性のもの、突発的なもの、様々な形態に分類される。ヒトでは「クロイツフェルト・ヤコブ病」「クールー」、羊では「スクレイピー」が有名だ。
 本書は、そのなかの、遺伝性の「プリオン病」に侵された、イタリアのある名家の一族への地道で辛抱強い、そして共感的な取材を中心に、いかにしてこの「病」が人類に認知され、どう克服されようとしてきているのかを、17世紀まで遡り、実に広範にしかも深く追ったものだ。端的にいって、非常に面白かった。ほとんど第1級のミステリーだった。(ちなみに私はミステリー嫌いで、世で分類されているその分野の読書経験はほぼゼロです。これまで読んだ "私的ミステリー"の最上級は『罪と罰』で、これに匹敵する出来と思っています。実に素晴らしい一冊です。)
 ”されようとしてきている”、などと現在完了時制じみて表現したのは、この「奇病」が未だほとんど未解明だからだ。本書は2006年に刊行されているが、2019年の現在でも事情は変わらない。今日までに解明されたごく僅かな事柄は、大変な時間と、無駄と浪費と、不運と幸運と、関わった者すべての努力の結晶だ。
 
 狂牛病騒動時に「タンパク質が感染????」というところで、無数のはてなマークに圧倒され躓き、「意味のわからない猛烈に怖い感染症」で理解を終えてしまっていた私には本当にありがたい一冊だった。(「クロイツフェルト・ジャコバン派」…我が国でいうと「放射脳」が近いだろう…の数歩手前だったかもしれない。詳しくは本書を当たってください)。専門用語の羅列ではあるが、どんな素人でも、丁寧に読み込んでゆけば必ず理解できる内容と構成になっている。私はこの1冊で、なぜ「タンパク質」が「感染」などということが起きうるのかを、やっといくらか理解させてもらった。
 世界の超一流科学者たちもまた、まさにそこで躓いていたのだ。固定観念を破って、じりじり謎に迫り、克服せんとし知見を深め、僅かな知見をさらに発展継承してゆかんとする様がありありと書かれている。極めて良質の、現代の科学史になっている。
 本書は科学史の教科書に替わりうる性質のものではない。輝かしい科学史の登場人物(奇人変人)たちの尋常ではない情熱(あるいは臥薪嘗胆、偏執または異常性癖)、栄光に満ちたオモテと吐き気を催す醜いウラも余すことなく徹底的に描かれる。著者は「プリオン」をめぐる、あらゆる時代のものごと・人々を丹念に描き出す。
 英国の牧羊地に体をかきむしる変てこな羊がいる。イタリアには「高年に差し掛かった時、眠れなくなりやがて発狂し疲労し死ぬ」奇病の発病におののき、苦しみながら、それを運命として静かに受け入れてきた一族がいる。「外の世界」との隔絶と孤独。外の世界に翻弄される絶望、怒り、そして悲しみ。太平洋の熱帯、パプアニューギニアの隔絶された高地にひっそり住まう「未開の原住民」は、女と子供に特に多く発生する奇病に恐れ慄いている。大昔におかしな羊を産んだ英国で、おかしな牛を見かけるようになる。複雑な利害関係から致命的な判断ミスを犯す政治家たちがいる。硬直した制度の中で、科学者の力添えを得ながら、どうにか「真実」にたどり着こうとする官僚がおり、一方で無関心な官僚がいる。政府の発表に一喜一憂するあらゆる業界のあらゆる階層の市井の人々がいる。ただ日常生活を生きていただけで、取り返しのつかない結果となってしまった人々がいる。それに嘆き、怒り、苦しむ人々がいる。狂った牛の報告が世界中で増えてゆく…。
 一見して繋がり得なかった、それぞれ隔絶された小世界内の人々や出来事が、「狂った牛」を媒介に、軽々と階級を、人種を、国境を、時間さえも超え、いまこの私たち誰もに繋がってゆく。その構成は鮮やかだ。人間の強かさや可能性を強く感じさせてくれる。その点で、どんなフィクションも及ばない究極の人間ドラマでもあった。著者自身が「プリオン」に関係すると思われる難病の当事者だからからこそできた仕事なのかもしれない。時に皮肉を帯びるが冷静な観察眼と個々の人々へのドライだが一種共感的な眼差しの両立は、この著者ならではだろうと思う。
 
 私が本書からインパクトを受けたことのいくつか。
 ひとつは、「羊の狂牛病スクレイピー」の成り立ちだ。古くは競走馬の改良、最近ではクローン羊のドーリーに謎肉…じゃなかった擬似肉の開発と、とかく英国人は「生命操作好き」との印象を私は持っている。その端緒的なエピソードとして「スクレイピー」はあったという点だ。功利主義的動機のみで出来たケーキに敢えてアイシングしてみると「飢える労働者の食料不足を補うために」羊の可食部を増やそうとしたところから始まっている。それに対する手段が如何ともしがたいほど合理的だった。すなわち共食いだ。筋以外の商品価値は乏しいが栄養豊富な部位を砕いて甘味を施し嗜好性を高め、家畜に食わせたのだ。動機や手段が何であれ、私はその心意気を責めたくはない。神に抗う傲慢とみてもいいし、当時もそうした批判は厳しかったし、現代の私でも実は隙あらば攻撃したい気持ちもあるのだが、なかなかどうして、いろいろ考えると責められない。ただその改良のために、すでにスペイン人が時間をかけて苦労して改良したメリノ種を悪巧みの末に盗んできたところは…非常に英国人らしくて、ほっこりさせて頂きました。
 
 いまひとつは、古代人類の習慣的食人が遺伝子を「強く」し、英国におけるCJD(狂牛病に端を発するクロイツフェルトヤコブ病)の発症を抑制していたという最近の知見であり、対照的に我々日本人の半数以上が、その感染については極めて脆弱な遺伝子型であること、そして我が国の政府はそれをかなり早い時期から理解していて、世界で最も厳格な輸入管理をいち早く行ってきていた、という事実である。
 もし古代人の食人習慣がなければ、あれだけBSEを拡散させてしまった英国人は、今頃絶滅していたかもしれないという。流行当時は真剣にそれが議論されていたらしい。プリオン由来病のほとんどが、発症までに極めて長い「潜伏期間」を有するので、まさに今時期ごろに英国人の大量死が始まっていたのかもしれないのだ。そんな事態にならずに本当に良かった。私は、とんでもない泥棒行為を少しも悪びれず、キラキラの理念で正当化したりしない英国人の気質が結構好きなのだ。ところで「日本人」のご先祖様は、食人習慣がなかったのだろうか?
 
 ちなみに読了後1週間、どうしても牛肉を食べる気にはなれなかったが、食欲というか習慣の勝利、久しぶりに食べたビーフカレーは最高だった。いつのまにやら美味しくなってすっかりお気に入りの米国アンガス牛はやめて、なんとなく国産牛使ったけどね。
 
追記
元高級官僚が横暴な息子を刺殺する事件があったが、彼はBSEの時に農水省の要職にあった人だ。この読書に刺激されていろいろ調べてみると、当時、霞が関でも民間でも壮絶な闘いが繰り広げられていたようだ。2000年代初頭には獣医師が自殺するなど痛ましい事件も起きているが、欧州でBSE流行の兆しがみられた頃の我が国の情報収集能力には目を見張るものがあるし、米国が美味くないうえに英国スタイルの肉骨粉でドーピングした牛を両手いっぱいに抱えてウシウシ迫っていたあのご時世に、よく止めたよな、感心しきりです。データを見ると、検疫で違反が発見されるや否や即時に全シャットダウンし、国民に即座に情報公開しているんですね。英国では出来なかったことです。我が国では肉骨粉を牛に対しては最初から使用しなかった、英国からの牛肉輸入はなかった、流行以前からなされていたこういった判断も賢明、あるいは幸運でした。そしてその世界的酪農氷河期に米国の牛は改良され、新たな競争力を得て、我が国に再上陸したんですね。安くて美味い牛肉をたっぷり食べられる時代が来るとはね。
 
でもなんで英国の牛肉を輸入しなかったんだろう。
英国本国はもとより、欧州でも人気で、英国が誇る旨い牛だったというのに。
1970年代のことなので、輸送の問題なのか、為替レートの問題なのか、何かの協定に基づいてのことなのか、或いは直感で肉骨粉を警戒したのか?いずれこの辺を調べたいです。