私記と思記

何故なら、ものを書くということは人と交わるためのひとつの方法だからである。---V. ウルフ

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(申命記07:07)

 

 

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

 

 

 

信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)

 

 

 

                  

 

 


    顕著な社会的摩擦を起こして蛇蝎のごとく嫌われたり、実際にヤっちまったりするようなイカれた原理主義宗教や、その信者の話に不思議と惹かれる。象牙の塔の"中の人"が書いた学術書から、教団の"中の人"そして"元・中の人"が書いたブログや匿名掲示板のコメントの類までいろいろ読んできた。

 が、もうずっと理解できずにいることが幾つかある。

 その中の一つが

「なぜあんなイカサマ野郎(或いは変態、銭ゲバetc)を師と仰いで服従できるのか」

 原理主義宗教やカルト宗教というのは「グル(指導者)への帰依そのもの」でもあるので、「なんであんなアホが再構成した世界もどきに命賭けてんだ?」ということでもある。信仰という行為に対する疑問は、それを持たぬ誰もが抱く素朴な疑問だろう。あまりにも根源的な疑問だ。私にはこれが、何をどう読み散らかしてもどうしたって分からない。ほとんど異物として残ったままである。映画「ゴッドファーザー」でバジリーニ親分は「靴の中の小石は取り除かねえとな」と言ったが、ことこういう問題については、そう簡単には行かないのである。

 のだが、先日クラカワーの『信仰が人を殺すとき』を読んで、その「異物」に説明を与えてくれるかもしれないヒントを得た。

 古今東西の別なく、自覚の有無はともかく彼らは一様に強い被害者意識を持っているよう。ひょっとすると、それが彼らに信仰の動機を与えたり、強化したりする要素の一つなのかもしれない。*1

 「被害者意識」というと「被害を受けてもいないくせに云々」というニュアンスを含むが、実際に被害を被った経験を有するか否かはあえて等閑に付す。何を被害と呼ぶか(定義)で紛糾するし、程度(客観的指標)と意識(主観性そのもの)の関係ともなると、検証など不可能だ。だから「私はやられっぱなしの無力で弱い存在であるという自己意識」と言い換えてもいい。そのほうが適切かもしれない。乱雑につまり簡単にいうと「私はダメなやつだ」という自己認識は、ある種の信条体系と高い親和性があるのかもしれない。

  

30 おお、主なる神 よ、いつまでこのような悪事と不信仰がこの民の中にあるのをお許しになるのでしょうか。おお、主よ、わたしが自分の弱さに耐えられるように、どうかわたしに力をお与えください。わたしは弱い者でありこの民の中のこのような悪がわたしを苦しめます。31 おお、主よ、わたしの心は非 常に嘆 いています。どうか、キリストにあってわたしを 慰めてください。おお、主よ、この民の罪悪のためにこれから先わたしに降りかかるこれらの苦難を、忍耐をもって乗り切ることができるように、どうか力を得させてください。 ---『モルモン書』「アルマ書第31巻」(末日聖徒イエス・キリスト教会 2009)より ※下線筆者 

 こういう箇所はモルモンの聖典には他にもたくさんある。正統派キリスト教の使用する聖書にもうんざりする程出てくる。地球に名だたる名著中の名著、旧約聖書の「申命記」の一節を本記事のタイトルにしたのはそれを含意してのことだ*2つまり、教義(書かれ厳然と在るもの)だけに何かの原因を求めるのは無理があるのだ。すべての「書かれ、その結果実在するもの」には「それを読む無数の者ども」が自動的に付随してくるからだ。そして問題を起こすのは書物ではなく、この無数の読者のうちのごく一部である。テキサスではショットガンの所持は合法で所持者は少なくない。だがそれを使って人間の大量虐殺を試みるのは銃所持者のほんの一部なのだ。それはともかくとして「弱い、やられっぱなしの無力な私」を繰り返し、それを、服従なり契約なりと引き換えにどうこうしてくれる、という発想は、案外多くの人の心に響くのかもしれない。事実「弱い存在である私」が「強い何者か」の指示する宗教的実践によって強く生まれ変わり、悪い世界をクリアランスする物語を有するモルモン教は、幾多の離散の危機を乗り越え、いまやアメリカ随一の信者数を誇る新興宗教だし、正統派キリスト教はモルモンのように経典を一部共有する「異端」を生みながら、かれこれ2000年も続いているのだ。(第一ニケイア会議後から起算したら1700年くらい。第二公会議ならたかだか1300年くらいだけど。)

 ”今は弱くてダメダメだ。だけど誰々や何々に従えば、いつかきっと強くなり・・・” 

 

 

 宗教だけではなく、政治的・イデオロギー的「極なにがし」な人々にも原理主義宗教の信者に共通する傾向があるように思われる。その場合は信仰ではなく「信条」とか「信念」あるいは「理念」などと言い換えられるが、特定のものの見方に拘泥するその態度を取り出せば、本質はまったく同じだ。

 実際に近年の我が国の「極右」は「米国(派閥によっては韓国)にいいようにされる(された)弱い日本」を強調するし、「極左」は大昔から「権力(資本家)にいいようにされる、か弱き労働者」を所得や生活水準の変化を無視して、ずっと繰りかえしている。

 過激な宗教というのは、必然的に社会変革運動的な性質を帯びてくるので、社会変革運動の権化ともいうべき「極なにがし」勢力との比較は決して荒唐無稽なものではないはずだ。

 それについての考察はまたおいおい。

 

 

*1:犯罪を犯すことに関係しているのか否かは判断できない。「被害者意識」が、彼らの宗教的熱情…すなわち指導者への帰依服従に(かなり強い)影響を与えているのでは? 今の所、ぼんやり思っているだけだ。

*2:すごいよね。多数よりも「弱さ」に惹かれるって