私記と思記

何故なら、ものを書くということは人と交わるためのひとつの方法だからである。---V. ウルフ

人間は極めて限定された環境のみならず様々な環境に適応していける。限定された環境に適応していく為に必要な適応力を前もって僅かしか備えていなくても、新しい経験を学んだり見つけ出したりして、身につけていくことが可能なのだ。---A.ストー

 

             

 

 

 

自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか

自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか

 

 

2人のフランス人臨床家の手によるものということで、多様な症例から導いた複眼的な考察を期待していたのだが肩透かしを食らった。症例はエピソード的に(面白おかしく)挿入されるだけで、それについての考察や展開は皆無だった。症例を挙げる筆致にも真摯さや、クライエントへの敬意を感じない。というか、人間に対する敬意が感じられない。
 前半は子供とどうむきあうか、ということに割かれている。子供にこう言われたらこう反応せよ的なマニュアルめいた分類表も多数だ。中盤では自己評価の高い傲慢な人物を例に挙げ高いから良いわけではない、として高低という指標の相対性について述べられるものの、さんざん「高低」をスキームとして用いて、それを元に発症する症状や日常の反応の仕方まで分類したあとなので鼻白む。事あるごとに根拠薄弱な分類を行い、低い人はこう、高い人はこう、とやる。そして「低い」方はなんとも惨めな文言で埋め尽くされている。さらに「自己評価が低い」と「人種差別主義者」になりうる、とまで言い切る。後半、自己評価は可変的なものであるという極めて脆弱な前提を受けて具体的にどう変えるか、ということが述べられているが、巷に溢れる自己啓発的なありきたりなもので目新しさはない。自己評価の低かった人が、何々をして「成功」した、「勝利」した、そして自己評価を上げた、といった小咄で埋め尽くされてている。私は人間への敬意の薄さを、この辺から感じ取ったのだと思う。吐き気を催す人間描写だ。
 3分の1時点あたりで嫌な予感がしたのだが、案の定、現代の悲観的運命論のパワーワード中の パワーワード毒親が参上する。毒親とかいうのは(たぶん)アル中親の子供→アダルトチルドレン あたりの文脈から出てきた言葉だとは思うんだけども ※詳しく知りません。適当です *1。ただ原型がフロイトの愛着理論にあるのは間違いないだろう。幼少時に適切な扱いを受けないと後年神経症を患うというアレだ 。たしかに幼年期の経験というのは人間にとってとても大切なのだ。乳児期に母親から分離された子供は一様に不安に陥り、情緒不安定になるという。だが自分の遺伝子を多分に共有している親を「毒」=絶対悪と断定してしまったとして、その人はそれで幸せになれるのだろうか。「私は悪を孕んでいる存在だ」となるのは自明の理ではないか。しかも引き継いだ遺伝子は変えられない。これでは絶望だ。生まれる場所や時を人間は選べない。幼少時は育つ環境を自らの意思で選ぶことができない。つまり幼年期の家族のありようによって、すべてが予め決定しているということになる。しかも得られるべきだったものを獲得しなければ、人格は永遠に未熟なままで破綻するというのだ。おぞましい決定論だ。フロイトの愛着理論を突き詰めていくと、人生の全ては他者との「健全な」関係にあるのであり、それは家族によってもたらされるべきものであった、という家族原理主義にたどり着く。そして不幸にも手に入れることができなかったものは、「健全さ」を永久に失われたままなのだ。
 嗚呼私は子供にろくでもない環境しか提供できない毒のような悪い親に育てられた。ああ!なんて惨めで可哀想な私!(私は悪い遺伝子を持っているのか?)(まさか!だって私は選べなかったんだ!悪い遺伝子を持っているとして、それは悪い親のせいだ!私は悪くない、私は被害者だ!)ああ!私はされるがままにこんなにされてしまった! 
 まったき絶望だ。なぜかくも絶望的で極端な発想が、巷でもてはやされているのだろう。なぜ人格の成熟を語りながら、「毒親」なるものの人格について思いを至らせることができないのだろう。こんなものに共鳴したとして、自己憐憫に浸るか無力を呪うのがせいぜいではないか。下手したら憎悪に発展しそうで恐ろしい。なんて胸の悪くなる話なのだろう。
 話を本書に戻す。要するに著者らは、20世紀初頭アメリカはW.ジェイムズによる、他との比較によって自身を客観視する「自己を検討する能力としての自己評価」という枠組みの中に、19世紀末ウィーンはフロイトの古色蒼然たる愛着理論を詰め込んだだけで、先人たちの思考の痕跡から1歩も1ミリも発展なり展開出来ていないのだ。著者らは悪い意味で極めて保守的なのだろう。ところで著者らは「自己評価の低い人は頑迷で保守的」と分類している。一方「自己評価の高い人は柔軟で革新的」とかなりポジティブな語で括っている。つまり基本的には彼らは「自己評価の高い」ことを良き価値として捉えているのだ。すると残念なことになる。彼らが提唱する方法では、彼らが良き価値と見做すところの「高い自己評価」に至ることが出来なかったのだから。だって彼らは頑迷な保守主義者だなのだから! いや、まだこう言う余地もある。「捨て身の人体実験を無意識裡に行い、自説への反駁を成し遂げるとは、なんと革新的なのか!エスプリ効いてる!ビバ!高自己評価 」と。(ちなみにジェイムズはあくまでも自分を客観的に眺める「能力」として「自己評価」と言っています。高低をどうこうするものでも、価値を付与できるような静的な概念ではないのです。近年言われている「自己評価」はすべてインチキです。すくなくともジェイムズという「権威」とは一切関係がありません。)
   最近こうした「心理学的知見」をよく目にするが、こうした知見は人をどれだけ豊かに満ち足りた思いにさせただろう?「科学的」を標榜している分占いよりずっと悪質だとさえ思う。著者らは「自己評価の低い人は非科学的な占いが大好き!🤣」と馬鹿にしているが。私の目に映る彼らの物言いは、「愛着理論に基づく家族第一原理主義」教の狂信者による同族嫌悪そのものだ。

   嫌な予感がしたのに引き返せなかったのは、私の「自己評価が低い」からだろうか?彼らのお粗末なスキームに当てはめるとそういうことになるらしい(「自己評価の低い人は嫌と言えない」)が、これまで一度読み始めた著作は99%読了している。論説系は最後まで読まねば判断できないので余程でない限り我慢して読むことにしているのだ。習慣だ。ともあれ、愛着理論に基づく家族原理主義者はこう言うだろう。「あなたは途中で諦めることを"無意識"で恐れているのです。投げ出せば"見捨てられる"ように感じるからです。その思いは"支配的な両親"(養育者)によってもたらされたものです。"抑圧"された"心的外傷"の"補償"行為です!それを解放しない限りあなたの苦しみは続くのです!セラピーが必要です!薬が必要です!」。これでは手に負えない。出口なしだ。
   出口がない体系を理論とは言わない。それは絶対善を置いてそれに帰依し続けることで救いを見出す宗教だ。幸不幸の実現なり獲得に条件を付与して支持者を獲得する手法は広義の洗脳であり、それを「善」として実践するのはカルト宗教か共産主義だ。
   久しぶりにひどい読書だった。老眼が進行したらどうしてくれるんだよ。眼筋の柔軟性返せ。

 

*1:気になってウィキペディアを調べると、だいたいこんな見立てで良さそうです。斉藤学という精神科医が似たような指摘をしていることに親近感を抱いた。191105追記